虚用叢

見渡すかぎりうつろなくさむら

休日、休み、休むとは

 介護施設での週3労働を開始して1ヶ月半、この労働が楽しいと思えているのはうれしい誤算である。一方で、これまで人間の本来的な価値が宿ると信じていた休日、休み、休むとは何なのだろうかという疑問がわいてきた。

 大学・大学院生時代の6年間は、カレンダーどおりに進む授業こそあった。しかし、部活、バイト、研究、アニメ、ゲーム、プロ野球と活動は多岐にわたり、決して勤勉ではなかった学問に関してもなんだかんだ授業外の学習の比重が大きく、休日を意識する感覚はほとんどなかったように思う。何が本分とも言いがたい、ある種毎日が平日であり休日である、学生とはそうした身分ではなかろうか。なお、遊び友達や恋人といった存在は皆無であったため、彼ら彼女らと交際する日が休日という定義も持てなかった。

 院を出て無職として過ごした1年間は、それこそ平日がなかった。カレンダーどおりなのはテレビアニメとスマホゲームくらいである。好きな時間に好きなことをする毎日に、休日という概念は似つかわしくない。

 それからの現在である。カレンダーどおりでもフルタイムでもないものの、シフトが組まれ、勤務日と同時に人生で初めて休日が与えられることになり、これをどう過ごしたものかわからない。

週休4日の基底

 1ヶ月半前、労働を始めるにしても週休4日ペースを目標とした理由に立ち返ってみる。勤労は国民の義務だといった優等生的回答は脇に置き、わたしにとって労働するのっぴきならない事情が生活費の捻出であった。快適なニート生活が持続可能でないことから目をそらしながらも付けた家計簿により、昨年度(2021.4-2022.3)の支出は151万円余りだとわかった。

21年度の支出

 ここでは支出の内訳については本題ではないので深入りしない(というより別の機会に詳しく書きたいしフォロワーの生活費内訳も知りたい)が、こと消費に対して寡欲だと自覚しているわたしにとっても、ここから10万といったスケールで削るのは難しいという感覚があることだけ書いておく。

 したがって、労働とは150万円/年を得る行為であるという方程式が完成し、今の職場の時給1180円であれば8時間労働を週3でこなすことで148万円/年となり、およそこれを満足する。

 このように、週休4日としたのはあくまで収支ベースであり、休日をいかにして過ごすかを考えて決めたわけではない。いきなり正規雇用で働ける自信も気概も志もつゆいささかもなかったし、目いっぱい働かない上限である無職に対し、その下限を決めたのがお金だったにすぎない。

休むとは

 休日がわからないとぬかしていても休日はやってくるし、現に過ごしている。わからないという言葉からもっと踏み込むなら、休日は平日や労働の補完にしかなっていないという今の実感が受け入れられないとでも言おうか。

 今休みの日に費やしていることの大半は、より良い労働の準備とハウスキーピングに集約される。前者としては予習復習が最たるもので、前回何をやったか、次回何を任されそうか、自宅でも考える時間を設けないと正直自身の能力ではやっていけない。パートタイムといっても労働は労働であるし、30人以上の利用者それぞれのケアに完璧は求められずとも、結局無能のまま居直っているのが一番つらいのだとわかった。以前には考えられないことだが、労働時間外も労働者であることを、だれより自身が欲している。

 後者は、食事の作り置きや掃除洗濯といった語義そのままの家事だけを指しているのではない。毎日録り溜まるアニメ、積み上がる新聞、更新されるソシャゲ、流れるタイムライン、こうした本来は趣味や余暇と分類したくなる定期便のうち、平日に消化できなかった分は休日にまとめてこなすことになる。別に義務といったネガティブな意味ではなく、あくまでこれらも生活の一部として維持されるものであって趣味というには違和感があるというか、情報過多な無料・サブスク時代の実情を俯瞰しての認識である。他方で、これらは労働およびそのパフォーマンス低下を防ぐ睡眠、食事、予習復習などより優先されないという点で、現在の生活の基盤が労働にあることも示唆していて、やはり休日が平日の補完という感覚は否めない。

 もっと休みらしく休みたい。そう思ってブログを書いてもネタは労働だし、今日の朝刊一面の大見出し『大企業 選べる「週休3日」』が目に飛び込んで、増えた休みで大企業の社員は何をするのだろうと思って読んでみても、挙げられているのは副業とボランティアという始末。結局働いとるやろがい。

 ここまで書いてきて、わたしはつまらない大人の典型だと思っていた仕事人間なのかもしれないと思えてきた。週3しか働いていない非正規労働者が、仕事人間を自称するのは滑稽だろうか。しかし、没頭するほどの趣味のない人間が収支をもとに生活を営むと、賃金が発生する数少ない手段である労働が中心になるのは必然なようでもある。

 冒頭にも書いたように、労働は思いのほか楽しい。単に一人暮らしをしている自律があるだけだったこれまでから、今の一応の自立も加わった生活に不満はない。でもこれが満足かと自問すると、そうなのかなあ。