虚用叢

見渡すかぎりうつろなくさむら

体調が悪いときの考え事はろくな結論を出さない

 3回めのワクチンを打った翌日、8度近い発熱、上背から腰にかけての筋肉痛、立ち上がったときの斜め後ろにチューインガムで引っ張り込まれるような頭痛。起きているのもつらいというほどではなく、夜しっかり寝るためには日中はある程度起きておくのが良いのだろう。そうはいっても、難しいことをする気にはとてもならない。3週間後に控えたライブに備えて、スパスタのアニメの再視聴でもしようか。しかし、一番楽しみなコンテンツを体調不良時に安易に見るのは罰当たりかもしれない。結局、途中まで読んでいた小説を、ベッドの上で一節読んでは半時間浅く眠るような、長くて退屈な1日だった。それでも、正気でいられたのは、この苦しみが副反応による一時的なもので、やがて終わることを知っていたからだと、思う。

 四苦八苦の四苦は、仏教で生・老・病・死のことを指しているらしい。2000年以上前の時代に生まれたものとはいえ、苦しみの代表選手4名の選考に生が入っているのは後ろ向きすぎやしないか。少なくとも並び立つ3名の顔ぶれをみると、場違いもはなはだしく思える。

 ただしその感覚は、これまでの自身の生に基づいている。五体満足で生まれ、大病もなく、養育と教育を受け、借金もない。時間を取れば小さな不満はいくらでも思いつけるかもしれないが、この生そのものを苦と断じるにはイージーすぎる。

 なんとなくわたしは、この自身の生の安息が死ぬまで続くと思っていた。2000年前からは考えられないほど文明の発達した世界で、高望みせず、暴食を控え、よく寝て、ほどほどに体と頭を動かす。死のそのときまで健康で、自ら墓穴を掘り、自らそこに永眠するような生。健全な精神は健全な肉体に宿ると言うが、こうしたお気楽な将来展望は、何一つ不調のない25歳の男の体から産生される。

 それから25歳健康男は、ワクチンの副反応という強制不調イベントによって、不健全な肉体をもって、不健全な精神を宿すことになった。こと身体的不調というのは、他人から聞くのと身をもって体験するのとでは天と地ほどに違う。熱い、痛い、怠い。今回こそ副反応という終わりのある偽りの苦痛であるが、加齢し、健康第一の生活でも病むことが増えてゆくだろう。そもそも、健康と不健康とに、はっきりと線引きすることはできないのかもしれない。生と死とでも同じことが言える。どこかしらおかしさを抱えながら、ごまかしながら、生は続いてゆく。死の三徴候⸻心拍停止、呼吸停止、瞳孔散大⸻は法医学による人工的な生死の境界であって、器官の一部の機能的な死は以前にいくらでも起こりうるし(たとえばわたしはすでに17000ヘルツ以上の音が聞こえない)、一方ですべての細胞死までにはずっと時間を要する。

 ここまで書いてきて、人生も文章もどうやって締めるかわからなくなってきた。療養中に考え事は良くない。ポジティブな結論が出せないということは、やっぱり生を苦とした仏教万歳、釈迦天才ってことでよいですか。