虚用叢

見渡すかぎりうつろなくさむら

継続は怖い

 継続は難しい。インターネットの住人には長年何かを続けている人がたくさんいて、ずっとそうした人たちに憧れがある。個人サイト、アニメ実況、ゲーム、絵、音楽、学問、運動、何でもいい。アーカイブスが10年以上あるブログを見つければ、それだけで尊敬の念を抱くものだ。

 辞めてしまったことの方がずっと多い人生、この1年もいろいろと辞めた中で、いまとこの先何を継続しているかが大切だ。このブログもようやく1年になる。開始当初の月2本くらいという目標は早々に折れたものの、月1本は守って四季をめぐることができた。実のところ更新頻度自体はさほど重要ではなくて、継続のモチベーションとして月次ノルマはうまく機能したようだ。寂しいことに、楽しいとか好きとかいった気持ちには経年変化と波がつきもので、継続と相容れない。必要なのはシステムとしての習慣。どうもわたしの中の完璧主義者が不満を垂れてくるが、力の入っていない記事こそ、未来の情熱が逃げないようにしてくれるのだ。

 11月に届いた電子ピアノの練習記録をnoteでつけているのも、やはり三日坊主にならないためという思惑が大きい。サービスを利用してから知ったことだが、noteには前回の投稿から何日経過したか目に付くようにデザインされている。内なる声投稿頻度を決めるのはお前じゃないんだよを抑え込みつつ、毎週日曜に記録を上げると心に決めている。

 話が脱線するが、noteはブログとSNSの中間というか、長文、独語ベースのSNSといった使用感である。カスタマイズ性に乏しい統一的なプラットフォーム、良くも悪くも開放的で、赤の他人の記事がサジェストされ、サービス内で完結したフォロー機能もある。検索下位に埋もれるようなありふれた人間の日記やエッセイをとにかく数読んでもらう、あるいは読むなら優れたサービスに見える。あまり思い至らなかったのだが、たとえばTwitterならTwitterをするためだけにTwitterをしている人間が多い(わたしはインターネット人間を結ぶハブとしての、個人サイトでいうところのトップページとしての役割もTwitterに求めている)。そういった他のSNSで閉じたブログ記事をわざわざ共有するよりも、最初からSNS機能が付いたメディアプラットフォームに投稿する方が効率が良いだろう。

 さて、アニメとTwitterは、辞めたり再開したりを経てのこの1年だが、この先はどうなるか。前期から感想をブログに簡単にまとめるように決めたものの、今期の冬アニメが終わり始めたこの頃、正直気が重いです。アニメやオタク趣味のツイートに限らず、フォロワーの生存には救われている(Mina de Ganbarone)。

 そもそも、なぜわたしは継続を特別視するのだろうか。それが困難で珍しいからというだけではないだろう。継続と少し異なる概念に、経験がある。人間は過去の生の延長によって形作られているという主張は、あくまで部分的に正しいと思っている。なぜなら現在のすべては過去から生まれるが、過去のすべてが現在に重要なわけではないためだ。たとえば、だれかと懇意になったきっかけが1年前の会食だったとして、そのときの料理は他のものでよかったのかもしれない。反対に、会食相手とは以降一切の縁がなく、一方で料理店の方を気に入って通いつめるようになるケースだってあるだろう。あくまで偶発的に、部分的に現在のわたしに引き継がれるもの、それが経験である。

 わたしはかなり自己肯定感が強い方の人間だと思っているのだが、一方で昔の自分ができたことやした仕事にはあまり興味がないというか、どこか他人のことのように感じる気質がある。まだ20代で老化などと口走るのは安易とはいえ、精神力や体力も含めて学生時代はもっとこんなことやあんなことができたよなと思うものは多々ある。いまは違いかつ再び努力するつもりもないなら、それに執着しても滑稽なだけではないか。昔取った杵柄、マッスルメモリー、経験がブランクを経て身を助けることもある。だから過去を捨てるわけではない。ただ執着はしない。

 不確実性をはらむ単なる経験に対して、現在、未来と直結するのが継続だ。いまできること、将来できるようになること、それらに思いを馳せるのが、人生のささやかな楽しみである。それらはまもなく過去の、興味のない対象となってしまうものであると同時に、日々その先が更新され続けるものでもある。

 ここまで、いかにも能力主義のようだが、わたしにとってかならずしも成長や出来の良さは重要でない。何も為さないには長すぎる人生、何かを成すには短すぎる人生、ならば何も成せなくとも何か為すしかない。このブログのタイトルを決めるとき、チェーンの古本屋に並ぶカラフルな実用書棚を見て、何かの役に立つことを目的としない、自己満足な文章の集まりの場にしたいと思ったのだった。漢字三文字で堅苦しい、自分のお気楽なパーソナリティーとかけ離れていると感じもするが、いまでもそれなりに気に入っている。HNのi-i-i-i-iに対して、o-o-oなのも良いよね(自画自賛)。

 親や学校から離れることでようやく、すべてをがんばる必要はない、それと同時に何をがんばるかは自分で決める必要があると気づいた。継続というと、強制力のある労働に懸けるのもひとつだが、変化の激しい時代で需要に応じて柔軟にアップデートしながら身を入れるのはやはり気が進まない。ほんの1年前までは、AIに奪われないクリエイティブで高度な仕事をしましょうと言われていた気がする。昨今そう聞いたとしてほとんど懐疑的である。労役せずに食える世になるならそれに越したことはないが、そうでないならしかたなく日銭だけは稼ごう。AIが曲を書いて機械音声のみで収録をする世界で、わたしのピアノは稚拙に響くだろう。しかし、指先から伝わる鍵盤の感触と耳へ流れ込む音色との合致による快感は、わたしが弾くことによってしか満足されないものだ。

 また来年、この文章を読むのが怖い。そうしてこの恐怖は継続を辞めるまで永遠に続く。