虚用叢

見渡すかぎりうつろなくさむら

勤続3ヶ月

 既卒無職で1年を過ごした後、今の介護施設で週3のパートとして働き始めてから3ヶ月が経った。介護という職種はそれなりの興味を持って選んだものではあった。とはいえ実務経験もなければ資格もなく、ニートから労働者へ変身する負荷に耐えられる自信も意志もなかった。輝かしいキャリアに興味もなければ、仮にあったとていまさらという身で、だめそうならすぐにでも辞めてしまおう、そう考えていた。それがなんだかんだで3ヶ月続いて、しばらくはこのまま働こうと思っている。そのことがうれしい。『勤続』を辞書で引くと、用例に『⸻二十年の表彰を受ける』と出てきた。わたしの3ヶ月はだれかから表彰されるようなことはないが、入社でも入職でもなく勤続と頭につけるくらいには、うれしい。

 一と月半前と比べると業務にも慣れて、勤務中も休日も余裕ができてきた。いったん所感をまとめておこうと思う。

hibihinichi.hatenablog.com

満足度評価

 はじめにざっくりと現在の労働の満足度を評価しておく。調べてみると、介護労働安定センターという公益財団法人が毎年介護労働実態調査を行っているようで、これが大規模で面白く、結果を眺めているだけで丸一日つぶれる。最新の令和2年度の調査にある、問15【現在の仕事の満足度】に答えてみる。

①仕事の内容・やりがい……満足
②キャリアアップの機会……満足
③賃金……やや満足
④労働時間・休日等の労働条件……満足
⑤勤務体制……やや満足
⑥人事評価・処遇のあり方……満足
⑦職場の環境……満足
⑧職場の人間関係、コミュニケーション……満足
⑨雇用の安定性……満足
⑩福利厚生……満足
⑪教育訓練・能力開発のあり方……満足
⑫職業生活全体……満足

 あらためて回答してみると自分でも満足度の高さに驚く。全12項目で不満はなかった。まだ始めたばかりで評価するような立場でもない項目もあるし、わたしの願望の低さによるところも大きいだろう。そうはいっても、介護職員を対象とした調査結果と見比べると恵まれている。

現在の仕事の満足度(介護職員、n=8864)

 ここからは項目の中からいくつか抜き出して掘り下げてみる。

賃金……やや満足

 給与は時給制で交通費含め1198円/h。最低賃金からプラス200円以上もらっていることを鑑みれば、それなりではないだろうか。時給には介護職員処遇改善加算という政策による処遇改善手当186円が含まれており、これが大きく給与を押し上げている(どうでもよいが政策の説明が図表だけで文章が無いの、品が無いし見辛いからやめてほしい)。同じ名目でまさかの賞与も出たところで、3ヶ月の出勤時間で割ると時給1300円超となる。無資格未経験、しばらくは0.5人分の役割も果たせていなかっただろうに、ありがたい。

 お金が大きなモチベーションになっているのは確かで、下手な仕事はできないと思うし、介護実務者研修の資格取得も始めた。かといってあくまで今の自分の仕事ぶりに対しては十分という評価であって、家計は苦しい。でも労働時間は増やしたくない。秋の契約更新では時給交渉ができるくらいには自信をつけていたい。

労働時間・休日等の労働条件……満足

 現在はほぼ早出(7:00-16:00)、たまに日勤(8:00-17:00)の2通りのシフトのみで勤務している。ここが働き始める以前の想像と大きく異なる点で、夜勤や遅出で生活リズムが崩壊するものと覚悟していたが、今のところは全然ない。というのも、人間の生活そのものを支える業務であるので、朝と昼と夜とで内容も様変わりし、複数の勤務帯を新人にさせるのは負担が大きいという判断らしい。同時期に入ったフルタイムの新人2人も同様に、遅出専、準夜勤専とルートを進められているようだ。応募時の面接で朝型と言ったのが考慮されたのか、早出が割り当てられたのも幸いである。

 とはいえ、この先別の勤務帯も打診されないとは限らない。先輩の正職員たちは早出から夜勤まで入り乱れるそれはもうカオスなシフトできつそうである。パートであることを理由に夜勤はNGなどと条件を出すことはおそらくできるが、経験としてはありだという打算と、他職員にのみきつい役回りを押し付けるのはどうなのだという気持ちとがあって悩ましい。

 また、こちらが提示した週休4日の条件は厳格に守られ、残業もまだゼロである(勤務帯的に残業してもおそらくやることがないという事情もある)。同フロアの先輩職員の見える範囲では、残業は夜勤時に1、2時間というパターンが多く、前残も含めて月に10から20時間くらいだろうか。すくなくとも勤務時間に関しては、ワークライフバランスに気を遣っている印象がある。

 一点愚痴をこぼすなら、20、30分前出勤が常態化していることだ。たとえば日勤の場合、規定の出勤時刻は8時だが、朝食の配膳も8時で、さらにはそれまでに申し送りの確認を済ませておく必要がある。(おそらく労基法に抵触しないように)早めに来いと明言されることはないが、(下でも触れるふてぶてしい新人を除いて)どの職員も自主的に20、30分前にはフロアで職務を開始できるように出勤している。タイムカードはあるが、労働時間の参照に使われることもなく、休憩や退勤も時間きっかりにされないことも合わせ、毎度40分サービス残業しているようなものである。なんならベテランほどちゃんと休まないので、40分では済まない。考え方の問題と割り切ってもう慣れたが、社会では当たり前なのだろうか。

職場の人間関係、コミュニケーション……満足

 ここの評価が低いと、他の施設、あるいはチームではなく個人で動くことの多い訪問介護への転職を考えることになるだろう。仮に転職して、はたして今より良好な人間関係が築けるとも思えないので、満足という評価に落ち着く。

 施設は5階建てで、わたしは全34床の多床室フロア担当の介護職員の一人である。主に関わるのも同階の介護、看護、リハビリ職員だ。癖の強い人もいるが、新人を除けば皆優秀かつ勤勉で、職務上関わる分には大きな問題を感じていない。ハラスメントもない。地味に警戒していた身体的特徴による不快(体臭、特にたばこ、極度の肥満等)もない。介護はサービス業なのだ。ちょっと声や物音が騒がしい人はいるが。

 雰囲気はドライで、プライベートでの親交は少なそうである(わたしが知らないだけかもしれないが)。うれしいのが交代勤務の関係で休憩を一人で取れることで、心穏やかに昼食を取っている。

 ドライながら職務上の連絡は円滑にできていると思う。高齢者は本当に体調が急変するもので、翌日出勤してみたら救急車で運ばれていたみたいなことも少なくない。口頭連絡はもちろん、申し送り事項は電子カルテに記入され、フロアのパソコンとタブレットで確認するようになっている。介護記録の電子化は、ちょうどわたしの入職時が過渡期だったようで、他人の手書きの字を読まずに済むようになったのは非常にありがたい。

 不満があるとすれば、同階の介護職員以外のシフト表や名簿がないため、他階からのヘルプだったり、人数の多い看護職員だったりの名前がわからない、忘れていることがあり、気まずさを覚える。また、気にするほどではないが、新人の一人が能力のわりにふてぶてしい人で、ときおり先輩にきつく絞られており、当人より見ているこちらの方が気分が悪いというのは否定できない。つまるところ他職員を不快にさせる人は、他職員から不快にさせられる人でもあるのだと思う。自分がそうならないようにしたい。

仕事の内容・やりがい……満足

 やりたいことがない、天職など幻想であるというわたしの人生観は、裏を返せばどんな職務でもそれなりに楽しんでこなせるだろうという楽観でもあり、ここに不安はあまりなかった。しいていえば能力不足による苦労はありうるが、まあなんとかやれていると思いたい。

 人手が不足しているというのは、その分だけ能力がなくても雇用を守ってもらえるという雇用契約者間の力関係でもあるから、介護を選んだのはそういった理由もある。回答項目に雇用の安定性とあったが、向こうから切ることはまずないだろうし、世界的な超高齢社会において、ただ働くだけならこれほど安泰な職業もないと思う。

 業務内容をつぶさに取り上げて、これが楽しい、これがつらいと話を広げることもできるが、それと辞職しないこととはさほど関係がないように思える。どうしても耐えられない業務がないというだけで条件はクリアしているのではないだろうか。これだけだとネガティブに見えるかもしれないので補足しておくが、今の業務にはやりがいを感じている。得られる知見、経験は日々新鮮である。働いている自分を好きでいられている。

今後

 所感をまとめたことで、現状への満足感は強化された。無職時代と比べて、現状維持でもよいという意識は心に安寧をもたらしている。先にも触れたが、唯一やや満足の評価にとどまった時給と能力の向上を目的に介護実務者研修という業界の王道資格の取得を始めている。ただ、費用が高くてやりきれない。テキストと約50時間の教室授業で10万円。試験で能力を問うのではなく、気前よくお金が払えるかどうかを問う資格である。職場というより、業界へのこうした不信感はこの先も見えてくるかもしれない。テキストを読むだけなら投げ売られた古本で十分。せめて今月始まる授業を実りあるものとしたい。

ラブライブ!スーパースター!! Liella! 2nd LoveLive! ~What a Wonderful Dream!!~ with Yuigaoka Girls Band

 6月4日、5日と2日間、ラブライブ!スーパースター!! Liella! 2nd LoveLive! ~What a Wonderful Dream!!~ with Yuigaoka Girls Bandに現地参加してきました。これはその忘れたくない夢の記録です(※ネタバレを多分に含みます)。配信のアーカイブは買わずに記憶を頼りに書いているので、一部事実と相違するかもしれません。

やっぱりこのB2ポスター良すぎる。家宝にします。

はじめに

 簡単に当方について書いておきます。わたしはアニメものやアイドルといったライブに参加するのは今回が初めてで、当然ながらLiella!を含めたラブライブ!シリーズのライブを観るのも初めてです。(深夜帯の)テレビアニメ自体はここ10年くらい波がありつつもライトに楽しんでいますが(Annictリンク)、ラブライブに関してはスパスタを今年の冬の再放送で視聴するまで一切触れてこなかったバリバリの新参です。

 音楽の嗜好としては、Jポップ・ロックの特定のアーティストの偏食家で、いずれも現役活動を終えており、必然的に享受の仕方としてはほぼ既存のCDを聴く形になります。ライブ参加は学生時代に1度だけで、しかもそれは過去のライブ音源と映像とに生のバンド演奏を合わせたフィルムコンサート形式で、ライブとしては特殊なものでした。

 まとめると、わたしはアニメのリアルイベント、アイドル、ラブライブ、現役アーティストの応援、音楽ライブいずれについてもほぼ経験がなく、今回の体験が新しいことだらけなのでした。

大阪うろつき

 地方のライブもといイベントというと、その地での観光や食事も大きな楽しみでしょう。ただ、わたしは大阪に移り住んで長いのとお金がないのとで簡潔に済ませました。

通天閣

 快晴だった1日目の昼過ぎ、コラボ中の通天閣に行きました。当日に家を出ても余裕で着けるので地元開催は楽ですね。

 かわいいデザインと地元コラボの特別感にひかれてアクスタだけさっと買おうと思っていたのですが、売店には大挙したオタクで50分待ちの列ができていました。催し物に限らず人混みにはとんと来ないので、これだけで想定外であり気圧されました。普通の格好をした人も多いのですが、やはりライブTシャツやコスプレ、缶バッジ大量鞄を身にまとった一目でそれとわかるオタクを実際に目の当たりにすると、ネットだけの話じゃなかったんだと感激しました。列整理のお兄さんが売店やショップではなく「物販・・列はこちらです」と案内していたのですが、もしかしてオタクに毒されていた?

 あと、グループで来ている人たちの会話がどうしても耳につきます。ソロが少ないわけではないでしょうが、わたし含め1人だと無言で存在感皆無ですからね。ツイッターの名前に参加イベントを入れて同行者を探すオタクの気持ちが少しわかった気がします。

50分の待機列を終えて、無事に後輩に挟まれた蛸可可(タコ・クゥクゥ)をゲット。
売店出口付近のアルバム販促ポスター。もっと店内の写真撮ればよかった。

 会場での物販受け取りの時間が迫っていることもあって、アクスタ購入後は速やかに環状線へ。地下鉄を出てすぐがパチンコ屋とドンキなのがこの街らしくて好きなんですが、JR側には真新しい星野リゾートができていて驚きました。

動物園前東出口。

OMO7大阪 by 星野リゾート。この春にオープンしたらしい。

大阪城ホール周辺

 通天閣の他は、もう会場周辺を少し歩いたくらいです。1日目は事前注文していたブレード、パンフレット、ポスターを受け取った後、開場まで川辺のベンチでパンフレットを読んでいました。

 2日目はまっすぐ会場に向かい、余った時間で少しだけ城の方へ。初めからライブレポートを書くつもりだったので、午前中は前日の振り返りとDay2で確認したいことの洗い出しに充てていました。開場が始まっていたこともあり、天守閣の入り口まで行っただけですぐに帰りました。

内堀から望む天守閣。

名物?のエレベーター。

ライブ観戦する自分を俯瞰する(今期アニメネタ)。

ライブスタート

ステージと座席

 いよいよライブです。Day1とDay2、セトリ自体は同じだったので混ぜて書いていきます。ただし、受けた印象は観戦が初回か否かだったり、座席が違ったりという要因で様変わりしたところもあるので、随時特記します。

 まずステージについて、メインステージから花道が伸びてセンターステージが設けられていました。座席はというと、下の図を見てもらうのが早いですが、1階のアリーナ席は抽選されず、両日ともスタンド席でした。特にDay1は立ち見に近い後方であまり期待していなかったのですが、実際には後述していくようにかなり楽しめました。

ステージと座席(座席表 | 大阪城ホールより借用、一部改変)。

セットリスト*1

オープニング

 右も左もわからないDay1、開演の18時が近づくにつれて続々と席が埋まっていきます。やがてシリーズのCMを流していたメインステージ上のスクリーンがライブロゴに、音声も案内とアルバム収録のソロ曲のインストに切り替わりました。この時点ですでに歌唱者のカラーに合わせてブレードを振っている観客がまばらにいて、温かみを覚えました。

 暗転。会場中が一斉に立ち上がって拍手。アニメが映し出され、メンバーと並んだかのんが挨拶を始めました。東京大会のStarlight Prologueです。

www.youtube.com

 うおー!開幕からスタプロか!カラー何にしようかな(箱推し)と思っているのも束の間、会場全体を縦断する虹のようにブレードの色がエリアで分かれているではありませんか。これはちょうど動画のサムネにあるように、サビのキャラの立ち位置に合わせた舞台の電飾そのもの。

 この瞬間わたしは2つのことを理解しました。1つは会場のオタクたちが訓練された一丸の部隊であること。もう1つはわたしを含めファンである我々自身がライブを彩る舞台の一部でもあること。過去に覚えのない一体感に震え上がりました(まだキャスト登壇前)。

 そしてこの曲といえばあれですよ、ラスサビ頭のかのんソロ「Lookin for light」の歌い出しと共に舞台全体が一瞬でマリーゴールドに切り替わる演出。人生における最高の快楽の1つは、予想した未来が一切違わずに現出する瞬間に立ち会うことですが、ここでもそれが起こったわけです。会場を渡る5色のStarlinesが、太陽へ向かう花一色に一変しました。興奮で頭がくらくらしてきました(繰り返しますがまだキャストは登壇していません)。

 Day2も経験したあとにしてみれば、Day1の座席が会場全体が見渡せる位置だったことも効果的にはたらいたのだと思います。傾斜のおかげで前列の頭が視界を遮ることもありませんでした。(メイン)ステージが遠いといえば遠いですが、同じ空間と時間をキャスト、スタッフ、観客、わたしで共有していることの方が、大きく見えるかどうか以上の意味を持っているのだと、これから感じていきます。

 さて、TVサイズのスタプロが終わってキャラ紹介ムービーに続きます。スパスタのメインテーマって物語の始まりって感じで想像力を搔き立てて良いよね。街が奏でる音楽と並んで、わたしをアニメに一気に引き込んだ劇伴です。

open.spotify.com

M01 Shooting Voice!!

今夜キミに届け!
キラキラのShooting Voice!! 飛ばすよ
想い乗せて

open.spotify.com

 ムービーから間を置かずに5人の力強い歌声が会場に響き渡りました。スモークと共にメインステージ中央からそろっての登場です。待ち望んでいたうちの一曲!まさかのトップバッター!改めて歌詞を読むと実に1曲目にふさわしい。

 頭の歌声もそうですが、前奏に入ってから爆音でビビりました。これが生バンドの力。過去に1度だけ行ったライブでも、そういえば最初は尋常でない音量にショックを受けたことをフラッシュバックしました。無駄に?でかい音を浴びるのがどの音楽ライブでも共通の醍醐味なのかもしれない。

 鉄紺地に白の刺繡の気品ある衣装。人生初の生Liella!、そして生歌声です。初日は距離の関係でスクリーンとステージを8対2くらいの比率で見ながら、実在を噛み締めました。あらかじめ勝手のわかっていたスタプロのアニメと比べて事前情報が無いので、脳と体がフル回転しています。どんなダンスを踊っているのか、立ち位置はどこか、りーちゃん声量パワフルだな、やっぱり良い曲だ、リズムに乗るだけじゃなくブレードタイミングよく振らなきゃ、あ、ジャンプの瞬間逃したっぽい、というかオタクたち予習完璧すぎだろ、……。情報の洪水に吞み込まれているうちに、気付いたら曲が終わっていたという感覚。

M02 だから僕らは鳴らすんだ!

open.spotify.com

 息つく間もなくライブ定番曲へ。声を出せないなら手を叩けと、つくりからコロナ禍に適合した一曲。引き続きエレガントな衣装と、足を上げて全身を激しく動かす振りのギャップが良い。スクリーンにはライブ映像にARで手のアニメーションが重ねて映し出され、演者のコールとともにクラップのタイミングを教えてくれます。やってみて初めてわかったのですが、これがとにかく楽しい。右隣の大柄のクーカーオタクに負けないように力いっぱい鳴らしました。煽りを受けて応える、コール・アンド・レスポンスの愉快さもそうですが、自体人類にはともにリズムに乗る血潮が流れているからなのでしょう。僕らのおとが響く、それだけで未来はハピネスなのです。Day1は「(座席が)アリーナの人?」のコールに周囲でわたしだけ間違えて叩いてしまい恥ずかしかったのですが、これも良い思い出。

MC①

 Day1の初っ端の声をそろえた「こんばんは」のあいさつで、一人だけ「こんにちは」と言ってしまう伊達ちゃん。MCやトークで息の合わないこの感じは、まさしく生放送やラジオでいつも見ているLiella!だと、感動。話しているキャストに合わせてブレードの色を変えるのも現地ならではで楽しい。

M03 Dancing Heart La-Pa-Pa-Pa!

open.spotify.com

 楽しい曲が続きます。ここで初めてセンターステージにキャストが登ったのですが、Day2の席だとかなり近く感じます。しかもほぼ正面かつキャストの視野角基準でホールの中段辺りの位置にいるだろうため、こっちを見ている感がすごい。いや、間違いなくこちらを見ています。ペイちゃん顔小っさ、ぴょんぴょん跳ねる振りかわいすぎる。一番上から全体を俯瞰するDay1の席に対し、Day2はことセンターステージに立たれるとそこにしか目が行かない。画面越しでなく、直接お互いに見合う特別さ。ここでは一対多あるいは多対多であって一対一ではないことは重要ではなくて、演者の見ている景色の一部にでも自分が含まれていることに代えがたい悦びを覚えるわけであります。ブレードと拍手にいっそう力がこもりました。

M04 1.2.3! かのん・すみれ・恋 Ver.

open.spotify.com

 3人とも終始センターステージでの歌唱。可可の曲のイメージが強く、いないのが意外でした。そもそも何で5人じゃないのだろうかとDay1。この曲もジャンプの振りが要所で出てくるのですが、それとタイミングをそろえてブレードを伸ばすのもDay2では板についてきました。余裕や慣れもありますが、どうも直接演者を見ていると反応しやすいですね。リアルタイムから物理的に遅延するにしても、音とスクリーン映像のタイミングが合うように計算されているように感じたのですが、遅延の長さといい実際どうなのでしょう。

M05 水色のSunday

 可可不在を疑問に思っていた前曲の終了とともに、次曲の前奏より先に会場のブレードがパステルブルーに灯り始め、すべてを察します。可可ソロのつなぎだったのか。

open.spotify.com

 Day1では、歌唱に入ってからもしばらくりーちゃんがどこにいるのか見つけられずキョロキョロしていました。……ア!?スバラシイコエノヒトー!!!メインステージの上段向かって左袖から出てきたのですね。傘を合わせた白と水色のフワフワロリータ衣装。ここまで触れませんでしたが、髪色が一段と明るくなっていてまんま可可ですよ。

 このたび初めてメンバーの生歌を聴いていて意外だったことの一つが、りーちゃんの歌声の通りの良さでした。ソロでより実感。低音から高音まで安定していて気持ち良い。

 演出にも魅せられました。曲調に合わせてメインステージを散歩するように広く使い、2番後の間奏で開いた傘を床に逆さに立てて独楽のようにクルクル、大サビからの傘に仕込まれたカメラを使った自撮り演出。可可と曲のかわいさが存分に表現されていました。さいごに、ラスサビ前のパンパン(手拍子)、あれ決まるとキマる。

M06 Flyer’s High

 また前奏より早く会場が新しい色に染まります。オタク早えーよ。

open.spotify.com

 千砂都ソロ。アニメ6話オマージュと思しき深紅の衣装でなこちゃんの登場。この世界では当たり前なのかもしれませんが、激しく踊りながら同時に歌うというのは人間業ではないように思います。ソロだとパート分けがないからなおさら。バンドメンバーとの掛け合いもようやくここでがっつり見られました。

M07 青空を待ってる

open.spotify.com

 これは入りの演出が出色でした。アルバムの順番に倣って次はすみれソロかなと思い(今になって調べると別に前例はなかった様子)、会場のブレードもピーチピンクからメロングリーンに変わりつつありました。そんな雰囲気の中、スポットライトに切り替わり、しっとりとキーボードが単独で演奏を始めました。先ほどまでの盛り上がりが鎮まり、困惑の雰囲気さえあります。加えられたアレンジで何の曲かわからないというところから、徐々に形が見え始め、やがて会場はマリーゴールドに染まっていきます。演奏が止み、再び暗転。実際には数秒ほどの沈黙が、とても長く感じられました。

 満を持して響く伊達ちゃんの歌声。気付けばセンターステージに立っており、白練の衣装で後光を浴びています。メインステージのキーボードからの見事な視線誘導に鳥肌が立ちました。明るく元気な曲が多いLiella!の中にあって、バラードをどう見せるのかは注目していた点の一つでした。実にあっぱれです。

M08 Tiny Stars アコースティック Ver.

 曲の途中で移動して最後はメインステージで歌い終えた伊達ちゃん。すると無音の中、右後方からこれまた純白の衣装のりーちゃんがおもむろに近づいてきました。そっと肩に手を置き、どこかから「マジか…」と嘆美が漏れました。

駆け抜けるシューティングスター
追いかけて星になる
煌めけ!

open.spotify.com

 演奏はリズムを取る程度のギターだけ、寄り添ったままの2人がしっとりと歌い上げていきます。ここまでは生バンドといっても原曲に忠実なアレンジだっただけに、ここでしか聴けないこの歌が際立ちます。大サビの掛け合いで見つめ合い、最後にはかたくというよりそっと手と手つないでフィナーレ。

M09 瞬きの先へ

open.spotify.com

 流れを引き継ぐようにバラードナンバーが続きます。Wish Songのカップリングということもあって恋のイメージの強いこの曲。イントロの瞬間からサファイアブルーを灯しました。ただ、よく考えれば曲の進行としては恋以外のソロ・デュエットパートがしばらく続くのですよね。前奏の間にステージ向かって左に移動していた伊達ちゃん、反対の右に立つりーちゃん、右上段のペイちゃん、左上段のなこちゃんと、それぞれ担当パートで真下に降りるスポットライトを神秘的に浴びます。では恋のパートはというと…。

僕もきっと

 1番の最後、この一言だけです。でも、この一言だけで十分でした。万感のこもった歌声とともに、ぽっかりと空いていた中央から、堂々の登場です。

 それからはなぎちゃんの独擅場です。間奏に入り、バレエを踊る踊る、回る回る、ステージを下から上へと駆け、跳んだ。

 落ちサビに入ってからも舞台は終わりではありません。集まったメンバーが順に歌う中、一人観客に背を向けて立っています。やはり恋のパートはトリ、振り返って”ひとつに”つながりました。やっぱりこれは恋がセンターの曲だ。

 ところで、このときの5人の白の衣装は既出だったのでしょうか。調べてみるとMTV Unplugged初出の衣装のそれのような気もしますが、少なくともなぎちゃんに関してはタイトスカートではなく、跳躍で大きく広がっていたと記憶しているのですよね。

M10 微熱のワルツ

open.spotify.com

 いや、このバラードの流れは神憑っています。静かに聞かせる曲を並べて、これだけボルテージを上げられるのだから大したものです。いつかの生放送だったかでなぎちゃんが語っていたのですが、全身を一つの楽器として広げて使う歌唱に対し、バレエって身を引き締めて踊るみたいなのですよね。ダンスールを見ていてもそんな感じがする(ニワカ知識)。その対照的な身体の使い方をどうやって両立させるか研究しているとのことでしたが、言葉どおり個性的なバレエを取り入れたダンスだけでなく、歌も情感たっぷりでとても良かった。MCでも触れていましたが、加入が遅れ、メンバー随一と称されながらあまり描写のなかった優雅さを、他ならぬキャストとして体現しているのだからすごい。

Band① Wish Song

 出だしにアレンジが加わっていて、わたしだけでなく周りもしばらく何の曲かわからなかった様子。大好きな曲だけに、正直演者のパフォーマンスつきでしっかり観たかった。メロディーはもちろん、アニメの設定とエピソードを美しく織り込んだ詞、手の繊細な表情が光る振付が、本当に好きなので。休憩とばかりに座るオタクも多かったです。わたしもここまで大拍手の連続で疲弊していましたが、せっかくと思い青のブレードを振りました。

M11 みてろ!

open.spotify.com

 アルバムから最後に残っていたソロ曲。今回のライブでCDでの印象から一番変化があった曲かもしれません。舞台は再びセンターステージへ。見間違いでなければ、前奏から歌い出しのタイミングで迫り出しを使ってペイちゃんがぴょんっと出てきました。ノンフィクション衣装で察します。次はペイトン無双だ。

 CD音源から印象がぐっと良くなった要因はいくつかありそうですが、一つは歌唱です。特にDay2の方が頭の低音から声がよく通っていた気がします。単にうまいという以上に、乗ってしまう歌声なんですよね。アニメではかのんの歌声に一気に引き込まれたわたしでしたが、気付けばすみれの歌にも魅了されていった過去があります。ただ、それはどちらかというとリエラのうたのDearsのような、優しさと強さを兼ね備えた声にでした。ペイちゃんの歌はライブ映えもピカイチなのですね。

 生バンドも活かされていたと思います。元がギターソロのあるようなロック調ですしね。曲の締めにはペイちゃんがセンターから「巻き起こせ―!!」と花道を猛ダッシュ、バンドメンバーを各所で煽りに煽って決着。

バンドメンバー紹介

 ペイちゃん以外の4人もノンフィクション衣装で登壇、ドラム、ベース、ギター、キーボードと一人ずつテクニックを見せつけながら紹介。まあ王道のあれです。台本どおりの語りだと、キャストを離れて一気にキャラっぽくなりますね。

M12 ノンフィクション!!

www.youtube.com

 ボールは再びペイちゃんに戻り、「ギャラクシー!」の高らかな宣言とともに、曲が一変、スクリーンにアニメ映像が映し出されます。10話の再演です。ラブライブといえば、このキャストによるアニメの忠実再現というイメージがありましたが、今夜はここで初めて持ってこられました。伊達ちゃんのぶりっ子極まった”あれもこれも欲しい”が好きすぎる。いまさらですが、元から用意してある映像やら音声やらに、生での諸々が終始ずれることなく進行するというのは、尋常ではありません。生で見る後奏の足上げダンス、すごかった。

M13 Day1

open.spotify.com

 これもCD音源から評価を大きく押し上げた一曲。良い曲ではあるけれども、ネットでの絶賛ぶりとは距離がある感想でした。この3曲、ライブで大化けしますね。曲がそういうふうにできているだけでなく、ペイちゃんのステージ回しが抜群にうまい。みてろ!でステージの際に座り込んで投げかけるところとか、Day1の手を突き上げる振りとか、2次元キャラ顔負けの決め顔とか、上がらずにはいられない。キャストからみても盛り上がりが伝わっているようで、Day2のMCでもなこちゃんに取り沙汰されていました。

MC②

 ここでようやく座って水を飲みます。特に初日はもうへとへとでした。話題は公演名にちなんで夢について。ペイちゃん「主役になるというすみれちゃんの夢を一緒に叶える」、なぎちゃん「アニメで見られなかった魅力を発信」、なこちゃん「ダンス以外のことでも何かかのんちゃんにできないことをできるようになる」と表明していき、クーカーを残して先にステージからはけます。続くりーちゃんのまっすぐな言葉に胸を打たれました。

「スクールアイドルにあこがれて一人日本にやってきた可可ちゃんと自分を重ねて見ている。Liella!の一員としてずっと夢の中にいて、この夢を可可ちゃんと、Liella!のみんなと、ファンのみんなと、いつまでも見させて」

 これを涙ながらに語るなんて反則ですよ。また来たい、また応援したいって思わざるを得ない。Day2では泣いたことを照れてアーカイブを見ないでと笑っていましたが、もう強烈に脳裏に焼き付いてしまいました。この後に伊達ちゃんの夢の話がされるのですが、りーちゃんの鼻をすする音が終始余すところなくマイクに拾われていたことしか正直覚えていません。

 Day2の話をもう少しすると、この辺りからいよいよ2日間の公演が終わりに近づいてきていることを意識していきました。すみれ三部曲の最高潮のボルテージから、いったん落ち着いて冷静になる頭。キャストが過去から今、そして未来へ続く夢を語っていく中、わたしはこの2日間の夢の終わりの訪れに目を背けたくなっていました。

Band② What a Wonderful Dream!!

 Wish Songと同じくアレンジでしばらく何の曲かわからない。さすがにこの曲は演者付きで改めてやるよね?

幕間① アニメ映像

 かのんに羽根が降りてくる1話ラストシーンから。ハレルヤ来たー!と思ったのも束の間、一斉に着席するオタクで恒例の幕間なのだと察します。かのん、可可、すみれ、千砂都、恋と1期の要所場面が流れ、再びかのん、かつても歌うことに恐怖心があったことを自覚する11話のシーンで締められます。

M14 私のSymphony

open.spotify.com

 11話とオーバーラップするように、ピアノ伴奏でかのんのAメロ独唱からスタート。What a Wonderful Dream!!の衣装です。てっきりこのままソロかと思っていたら、ピアノ伴奏はそのままに、1番の進行とともにCDのパート分けどおりに1人ずつスポットライトを浴びて姿を現しました。Bメロが終わったところで、メインステージに立つ伊達ちゃんと、それぞれ距離を置いて花道に直立した4人、センターステージへと続く1本の光の道が浮かび上がりました。

 サビの斉唱が始まると同時に、歩いてセンターに集まる5人。今日この場所が”胸に描いてたステージ”であることが、一観客としてどうしようもなくうれしい。

 1番が終わって曲調が一変、バンドもフル参加して賑やかなCD調に。Aメロのクラップにサビのジャンプ、しんみり聴いても良し、ワイワイ盛り上がっても良しで曲が強すぎる。

 ここでひとつ、印象的な光景を。センターステージだと、当然ステージより前の座席の観客は後ろを向いてステージを見ることになります。盆踊りのようにステージを中心に観客が円形に並ぶわけです。この状態で、曲の締めの"ラララ ラララ ラララ"のところでワイパーの要領でブレードを左右に揺らす観客、これがとてもきれいでした。特にDay1の席からは、ステージ傍からスタンドの一番上まで、色とりどりの光の渦が小気味よく左右に回るさまがよく見渡せました。ワイパー振り自体はFlyer’s Highでもあって、そのピーチピンク一色の波もきれいではあったのですが、対称性の差ですかね、込み上げる一体感に次元の違いを覚えました。お互いに顔も名前も知らない、ただ同じ時間、同じホールに集まっただけの人間が、Liella!といういろんな色の光で結ばれて、会場いっぱいに大きな渦をつくっている、実に神秘的な体験でした。

M15 始まりは君の空

www.youtube.com

 名曲が止まらない。真っ暗なセンターステージでポーズを取った5人が、一斉に灯る照明で立ち現れる始まりがたまらなく好き。ちなみに専用衣装以外で披露されたのは本公演が初めてだとか。

  [私を叶える物語盤]のカップリングである私のSymphonyとは対照的に、夢をみんなと分かちあうことがテーマなのですよね。振付も同じ振りをそろえてするだけでなく、複数人で完成するものが存分に盛り込まれ、ダンスそのものがMVとして最適化されている印象。それは現地でも同じで、Day2で"失敗は成功の準備運動"のりーペイを正面からバッチリ見られて無事昇天。

M16 Dream Rainbow

open.spotify.com

 名曲が止まらない、本当に。出だしのララララ~は省略、バンド演奏からのスタート。大言壮語にもほどがある歌詞が一周回って大好き。

行けるよ だって君がいっしょだから
たとえばそう 夜空にも虹が架かる

 晴れ上がりとセットで現れる虹を、よりによって夜空ですよ夜空。しかも事前に”たとえばそう”と溜めを入れて、夜空に止まらない無限の可能性を暗示する欲の張りよう。これまでは翳りのある詞やメロディーの曲を好んで聴いて生きてきたのですが、Liella!はやれ夢だ未来だとそれはもう明るい曲のオンパレード。それでも好きだから、Liella!は唯一無二の光、特別です。

 ライブに話を戻すと、せっかく光景が次々描き出される曲なのだから、演者のパフォーマンスに限らない、より大胆な視覚的演出ができそうな気がします。もっともこれは、アニメの方がやりやすいですかね。挿入歌コンペに負けてしまったのかなあ。

MC③

 キャストが明るく小ボケを入れながらしゃべる一方で、いよいよ終わってしまうとしみじみしていました。曲が流れていないと、疲労感と待ち受ける喪失感で潰れそうになってしまう。

M17 What a Wonderful Dream!!

www.youtube.com

 満を持しての公演タイトル曲。終わりに持ってくるところがなおさら、横浜から続く一連の公演の終幕を思わせます。

 メインステージで踊る彼女たちを見て、この日最大の既視感を覚えます。それは当然で、キャラからキャストへの変換を挟まない、MVそのままだから。

 終わりを意識して気が抜けたというわけではないと思うのですが、あっという間に曲が終了。キャストが降壇します。会場の拍手はまもなくアンコールの手拍子に。テンポもやたら速くて合わせるのしんどかった。最登壇までしばらくかかるだろうし、もう少し余韻を味わいたかった気もします。

幕間② 大阪公演オリジナルアニメ

 暗転して再び万雷の拍手に包まれます。丸枠にデフォルメ顔のみのキャラがスクリーンで歓談を始めました。城ホールが見下ろせる雲の上にいて、どうやら今のライブの観客の応援で昇ってきたみたいとのこと。憎いことを言いますね、ブレードを振って応えます。

 トピックは大阪に移ります。中の人の影響?で大阪の血が暴走する千砂都。大阪の丸はたこ焼きだけやない、お好み焼きに、お土産定番の豚まん、社長のクセ強いどら焼き!(←でも最近はかぶきもんのCMしか見んなと内心。)海遊館とは甘い、大阪といったらひらパーやろ!(ここでグラサンかける。)正直2日連続で見ても面白かった。

 他4人の切実な願いによって?千砂都のグラサンが外れてからは、真面目な話に。大阪上空だけでなく各所へ飛べる様子で、表参道、原宿、青山とアニメの舞台を巡り、結ヶ丘のスクールアイドルであることを再認識、最後に今は届かないあこがれの場所、新国立競技場モチーフの神宮競技場が映って終わりました。

EN01 START!! True dreams

www.youtube.com

 スタドリ衣装に身を包んだキャスト5人が再登壇。やっぱりこの曲に戻って来るのだよな。わたしにとってはアニメがLiella!の始まりであり、スタドリが最も観てきた曲ですから。

 直前の幕間のラストシーンのせいか、ライブ最終盤のテンションのせいか、はたまたりーちゃんが語った夢のせいか、Liella!を新国立に連れていきたい、スタドリの景色を本物にしたいと夢みてしまった。

 余談ですが、Day2では左前のコスプレオタクが幕間中にWaWD衣装を脱ぎ始めて、暑かったのだろうなと思っていたら、にわかにたすきをかけてスタドリ衣装に変身して驚きました。アニメ第3話までを観て、わたしがかのんにとっての可可になりたかったと感想を抱いた身としては、気持ちがわからないでもない。わたしも女だったらたぶんコスプレしてた。

EN02 未来は風のように

www.youtube.com

 前奏開始の瞬間、オタクのうれしそうな声が漏れ聞こえる、わかるよ。横浜、名古屋の同公演ではやらなかったみたいで、これも大きく影響していそうです。2期を目前にしての公演で1期OPEDの流れ、最後まで抜かりないセトリですよ。

 やっぱりED映像がかわいすぎる。過去のライブ映像は現地まで見ないと決めており、非歌唱シーンの続くこの映像をどのように演者が表現するのか非常に気になっていました。実際に目にした感想としては全部かわいかったのですが、それだとあんまりなので1つだけ。ペイちゃんのスカート畳んで座るシーン、最高でした。

 終盤にメンバーカラーのスカーフを持って踊る演出、これもとてもキュートだったのですが、Day2ではお別れを強く印象付けるようでちょっと物憂くも。また会えるかな。

MC④

 Day1だと再び泣いてしまうりーちゃんがやはり強かった。拍手が、ブレード振ってもらえるのがうれしいって、疲労が突き抜けているここにきて一番の反応を返してしまいます。これまで双方向型のコンテンツ消費ってしてこなかったのですよね。お便りを出したことがないのは当然、生でも録画でもログオフでコメントしないし、向こう側に認知されなくてよい、むしろ認知されることを積極的に避けようとしてきました。ただ、個を区別されない一ファンであるという部分はそのままで、キャストが喜んでくれることをしたいという思いは、この日たしかに芽生えました。

 Day2だとなぎちゃんの言葉が良かった。ファン、バンドメンバー、Liella!、みんなでつくったこのステージが第8話の文化祭のようだったと。アニメ原理主義者としてこれほどうれしい表現はありません。かつてのキャストがキャラになりきるというイメージから、今宵リアルライブを通じて我々ファンもまた舞台なりファンなりの一部としてアニメに入り込めるのだと実感しました。でもだからこそWish SongとStarlight Prologueをやってほしかった(亡霊)。

EN03 ユニゾン

open.spotify.com

 この曲をグランドフィナーレに、幕が下ります。今の気持ち、長々と書かなくても全部この曲が歌ってくれている気がする。歌いながら笑顔で手を振る5人に、わたしもめいっぱい振り返す。5人の姿が見えなくなって、拍手をしなきゃと思うのだけど、力が入らなかった。

TVアニメ2期PV

www.youtube.com

 魂の抜けたDay2終演、そのまま未来へ強制召喚です。なこちゃんが声を詰まらせて泣いてもこらえていたのに、オニナッツが映った瞬間に目頭を押さえずにはいられなくなりました。これを書くにあたって見返すまで、PVの他の内容なんも覚えてなかった。

トラウマ。

おわりに

 ここまで書き起こすのに結局1週間かかってしまったのですが、なるべく上演中の生の熱を思い出しながら文章にしました。さいごに、あれから1週間後の気持ちの落ち着いた今からみた、初参戦の総括をしたいと思います。

 2日間の公演は、これまでの価値観を一変させるほどに楽しいものでした。録音・録画された音楽や動画を一人で視聴するだけでは味わえない感動が、このライブにはありました。赤の他人と同じ時間、同じ空間、同じリズムを共有することで得られる一体感、演者とファンが間仕切り無しに対面することで生まれるリアルタイムの双方向性。アニメとリアル、キャラとキャストの融和を追究してきたラブライブ!は、先の特性とあいまって、集ったファンさえもアニメの世界へと飛ばす力を持っているようです。

 公演、アルバム、曲のタイトルであるWhat a Wonderful Dream!!は、それぞれの体を如実に表していました。単なる「夢」という以上に、「夢みる」という言葉が生み出す推進力が、止まることを知らないLiella!の源泉であると感じました。

 特筆すべきがグランドフィナーレを飾ったユニゾンです。わたしだけでない、このライブにいたすべての人がニゾン・・・・した曲ではないでしょうか。楽しいこの夢の時間がどうか終わらないでほしい、公演中先へ進む後ろ向きな思いを何度したかわかりません。これには単にこの公演の終幕に止まらない、5人のLiella!への特別な執着も含まれています。2期生の加入については、学年が上がるなら当然だろうと思っていたはずなのに、ライブがわたしを変えてしまいました。それでも、Liella!がいっしょに未来へと歩こうと言ってくれているのだから、彼女たちにこの先も鼓動を重ねていきたいと思います。ただ、2期生の情報はアニメ2期第1話まで入れさせないで、許してください。

カレーとルート

 カレーとルートは似ている。ここでいうカレーとは、多種のスパイスを織り交ぜたインド料理のことだ。そしてルートとは、平方根√のことだ。どちらもその寛大さによって、あらゆる他者を内に受け容れる存在である。カレーは食材を、ルートは数字を。

「君はルートだよ。どんな数字でも嫌がらずに自分の中にかくまってやる、実に寛大な記号、ルートだ」

小川洋子博士の愛した数式』p. 45

 ルートの話は博士に任せるとして、ここではそんな器のでかい料理であるカレーについて話をしたい。

食材と非食材の境界

 カレーはあらゆる食材を受け容れると書いた。あなたならどんな食材を思い浮かべるだろうか。玉ねぎ、人参、じゃがいも、豚肉、牛肉、……、ルーの外箱の裏に書いてあるようなありふれたレシピでもよいし、茄子、ピーマン、トマト、かぼちゃ、……、季節の野菜を使おうか。しめじ、納豆、メンマ、あさり、……、いやいやもっととっておきがあると、身を乗り出して語り始めてくれるかもしれない。

 他方で、わたしは次元を1つ上げる。カレーの器量はそんなものではない。どんな食材がカレーに合うかではなく、カレーはどこまでを食材と見なせるのか。求めるのは限りなくおいしいカレーではなく、限りなく食べられなそうな有機物を内包しながらも食べられるカレーだ。

 ところで、赤貧の一人暮らしを続けていると、ごみ出しの頻度がどんどん減っていっていることに気付いた。お金はなく、時間はある。この条件が自然と自身の生活を身の丈に合ったものに変化させてゆく。余計なものを買わないというより、人並みに物が買えない。我慢するだの節制するだの、自分の意志でやっているうちは程度が知れている。必要に迫られてそれに順応するという過程では、便利さだとか清潔さだとか好奇さだとかあらゆる欲だとかの閾値が、外部から指数関数的に下げ続けられることになる。

 そうしてごみ出しの頻度が減ってゆくと、困るのが生ごみである。食事に関しては、出費を減らしてゆくといずれ自身の栄養という下限にぶち当たる。生ごみに関してもこの下限食事量に付随して排出され続けるため、その他のごみから相対的に量を増やすことになる。加えて厄介なことに、この生ごみは衛生上長期間溜めることが難しい。都市に住んでいると、畑にまくこともできない。したがって、ごみ出しの頻度の下限もまた、食事による制約を受けるのだ。

 由々しき事態だ。わずかな部屋のごみと生ごみを入れた無駄に大きい自治体指定ごみ袋は、代わりに空いたスペースにわたしの6年間の独り生活の矜持をつめて焼却場に持ち去ってしまう。

 こうして窮したわたしに通じた策。それが『生ごみを出さない、全部食べる』であった。

 そもそも、食材と生ごみとの違いは何だろうか。教科書的に言うなら、可食部の定義とは何だろうか。文部科学省が改訂・公表している日本食品標準成分表から日本食品標準成分表2020年版(八訂)分析マニュアル(令和4年2月)を参照してみる。

 付録2の食品群別の試料前処理法(pp. 247-254)に詳しい、が十分ではない。たとえば魚類に関しては”可食部(三枚おろし)”の記述があり、それ以外の切り離された頭や中骨、ひれ、えら、内臓等は廃棄部とすると読み取れる。他にも全卵生の項目を読むと、可食部が何であるかの直接の言及はないが、測定作業の記述より殻に付着する卵白までがそれであることがわかる。一方で、野菜類、果実類、きのこ類等では、作業工程に”廃棄部位を除去”するとしか書いておらず、その廃棄部位が何であるかの説明を欠いている。

 結局のところ、成分表というのはそれを利用する国民にとって有益な情報でなくてはならず、可食部は何かを議論する場ではないのだろう。可食部は人々に曖昧な慣習、常識として共有され、文部科学省もまたそれに倣っている。

 そしてこれこそが重要な示唆だ。すなわち可食部とは慣習や常識に過ぎず、一定時間内に一定質量以上摂取すると致死率が一定値を超えるといった毒性による定義や、咀嚼不能とみなす硬度による明快な定義が存在するわけではない。三角コーナーから慣習をつまみ出し、気の迷いによって口に放ってみる。喉を通った瞬間から、世界は変わる。

カレーライスに希望つめて

 食えないと思っていたものを食ってみるとき、カレーは心強い味方だ。一般に、廃棄部とされるものは、不味い。遠回りしたが、可食部すなわち美味いところ、廃棄部すなわち不味いところという定義が簡潔で的を射ている。この不味いところが不味いゆえんは、大雑把に食感、食味、臭いの3要素に分解することができる。そしてこのいずれについてもカレーは融和的だ。細かく刻んで煮込んでしまえば食感はましになるし、味と臭いはより強いカレーのそれにごまかされる。食えなそうな有機物を何とか食えるようにする料理として、これほどの適任はいない。

 以下では、一般に食えないとされるもので、わたしが食っているものの一例をその食い方別にランク付けして並べていく。4.カレーでしか食えないはいわば食いにくさ最高ランク、廃棄部との境界だと思ってもらえればよい。

1.生で食える

  • りんごの皮、芯、種、へた
  • トマトのへた
  • いちごのへた
  • ぶどうの皮、種

 ここには可食部を多く生で食う食材で、廃棄部もそのままいくものが該当する。硬さや繊維っぽさ、渋味や青臭さといった、いわば草木感が可食の壁となる。わたしのように小松菜やパセリを生でパクパク食べられる人は、特にこれといった処理なしで食うことができるだろう。むしろ下手に温めたりする方が、青臭さが増してかえって食べにくいかもしれない。

2.レンチンで食える

  • 卵の殻

 卵の殻はほぼ炭酸カルシウムであるから、最もコストパフォーマンスの高いカルシウム食材の一つである。栄養価でいえば、廃棄される部位の多くは植物系の食物繊維・ビタミンあるいは動物の骨格系のカルシウムそのものに二分され、可食部からの摂取量をその分浮かすことができる。鶏卵の殻は薄く、硬さだけならそのままでも噛み砕けるが、気持ち程度雑菌を殺すためにレンチンをしている。同時にまとわりついた卵白も固まって少し食べやすい。卵白の膜が弾け飛ぶので、軽くラップをしておくとよい。

 味はなく、臭いもほぼしないが、咀嚼にはコツがいる。ヒトは咀嚼を繰り返す中で食塊という団子を口内で作って飲み込むのだが、殻は唾液(水分)を吸うこともなければ溶けもしないので、この食塊ができにくい。歯茎を切らないように舌や喉頭蓋も使って割るようにしてざっくり破片にした後は、砂状になるまで根気強く奥歯ですりつぶすこと。焦って水で流し込んだりせず、あくまで唾液で少しずつ飲み込むのが良い。卵の殻に限らず、食材の定義を拡張する際は、少量ずつ、よく噛んでから飲み込む。吟味とは、こうした営みのことを指すのだと思う。

3.焼けば食える

  • 人参の皮、へた、根
  • キャベツの外葉、芯
  • 白菜の芯
  • 玉ねぎの皮、茎、根、頭部
  • ピーマンのへた、芯、種
  • きのこ類の石突、原木
  • 魚類の骨(大型魚類除く)、頭、ひれ、鱗

 ここにはランク1と違って加熱して食べることが多い食材が並ぶ。人参を例に取れば、たぶん皮もへたも生で食おうと思えば食えるのだが、基本的に可食部分は加熱調理して料理に使うため、廃棄部とされる部分も一緒に調理しているというだけである。そのため、食べにくさというランクの基準とは一部齟齬がある。

 人参でも大根でもじゃがいもでも茄子でもよいのだが、これらの薄くて食感も味も存在感のない皮をわざわざ手間暇掛けてむく意味とはいったい何なのだろう。どうぞそのまま食え。火が通りにくいなら隠し包丁だけ入れろ。

 キャベツと白菜の芯は、硬いので刻んだり薄切りにしたりして食感を他となじませる。貧乏舌のわたしに言わせれば、味は葉の部分と大差なく、炒めるにしても煮込むにしても料理を邪魔しない。

 玉ねぎの諸々は曲者だ。十分に加熱しないと翌日に肛門が火を噴くことになる。一方で風味は非常に豊かで、廃棄部すなわち不味いところの定義から外れる逸材でもある。野菜炒めやカレーにおすすめ。

 山の人間で海産に疎く、加えて魚は高級品なのであまり食べないのだが、たまにセール品を買って食べると、特に青魚には栄養素の塊を彷彿する滋味に圧倒されて驚く。よく焼いてよく噛めば、やはりこれもほとんど食える。大きめの魚の中骨を一個いっこ外すと、そこにプルプルとした椎間板を容易に見ることができる。ヒトの脊椎も同じ。

4.カレーでしか食えない

  • 茶殻
  • コーヒー豆
  • 柑橘の皮、へた
  • バナナの皮、へた

 茶殻に関しては、麦茶、さんぴん茶と、中国人留学生からもらった謎のお茶の経験がある。もちろん、普通に淹れて飲んだ後に残った、ティーバッグの中身のことを言っている。国内でも(緑茶の)茶殻を食べる文化はあるようだが、わたしの場合は食べられるのかという疑問が自分事として浮かんできて調べることで初めてそのことを知った。

 出涸らしであるはずなのに残存する風味は強烈で、カレーに投入するにしても分量を誤ると異様な存在感を示す。ものによるだろうが、パサパサ、ザラザラ、ゴリゴリとした豊かな口当たりについても、やはり許容量を見極めねばならない。むしろカレーの他に、お茶を活かす方向で調理を探求するのが吉かもしれない。

 コーヒーはもともとインスタントを溶かしてレンチンするという考え得る限りのずぼらな飲み方をしていたのだが、ある日誤って抽出用の粉を買ってしまった。当然ドリップの環境はなく、これについては茶殻を取り出したティーバッグに粉をつめてクリップで封をし、やかんに突っ込む茶沸かしスタイルで事なきを得た(追加費用ゼロ)。だが、ここでもまた出涸らしが残る。

 あくまでカレーに入れた場合での比較だが、コーヒーの方がお茶よりはずっと食べやすい。煎り大豆を粉砕して食べるとこんな無味乾燥な感じなのだろうか。カフェインは抽出時に大半がコーヒー(水)に溶けているだろうし、栄養価でいえば三大栄養素と食物繊維が豊富な健康食材なのかもしれない。

 1.で生で食う果物とその皮を挙げたが、そうもいかないものはカレーに何とかしてもらう。わたしの食卓でいえばそれが柑橘とバナナだ。温州みかんタンゴール、文旦等々、柑橘は好んで食べるのだが、どれもその外皮は厚くて強烈に渋く、とても生で食べられたものではない。バナナの皮はそれと比べれば味はましだが、ぬめりと繊維のコンビネーションで、果実を忘れてしまうほど気合を入れて飲み込む必要がある。

 カレーの真価はここで存分に発揮される。いずれの皮も小さく刻み、バナナのへたはかなり硬い(ほぼ木)ので細かく筋を割いて、根菜類よりも早い段階で煮る。水をほとんど入れずに焼くような形でもよい。とにかく火をよく通しておく。あとは普通に作れば、みかんの渋味もバナナの食感も気にならないカレーができあがる。とはいえ決して美味いところではないから、あくまで分量は慎重に。一度ジューサーでペースト状にして混ぜたことがあったが、そのときはソース全体がザラザラした線維感に押し負けて不味かった。あくまで無毒化した具材として席を用意するのが無難だと思う。

5.食わずに捨てる

  • 大型魚類の骨
  • 魚類の内臓
  • 貝類の殻

 口惜しいことに、今のところ食えない、食い方がわからないものもある。たとえば小さくない鯛の頭骨は、煮たり焼いたり揚げたりしてもわたしの歯で噛み砕くことは不可能であった。貝類は高いし好きでもないしで買わないのだが、もし手に入れば同様の理由で殻は食べられないだろう。咀嚼可能かどうかの一点が卵殻との違いである。

 それらと比べれば、内臓はまだ可能性がありそうである。足りないのは距離の近さだ。豊漁なり養殖なりで価格破壊でも起こって、毎日内臓を抱えた魚と対峙することになれば、いずれどうにかして食ってみるかという気が起こるかもしれない。これは魚に限ったことではなく、あらゆる動物についても、より生きたそのままの形で冷蔵庫に突っ込まれることになれば、新しい適応をしていくことになるだろう。

おわりに

 こうしてわたしは生ごみに制約される暮らしが我慢ならなくなり、偉大なるカレーの力も借りて可食部の範囲を拡大してきた。思えば同じ排出物にしても、すべてが一度自分の消化管を通ってトイレに流されていくという構造はなかなか痛快ではないか。

 人間ほど活動範囲を拡げ、何が食べられて、何が食べられないかを模索してきた存在もないだろう。その更新はこれからも続いていく。もしわたしが早死にしたら、このブログを思い出して、きっとバナナの皮を食っていたからだ、あるいはカレーを食い過ぎていたからだと笑ってくれるとうれしい。

体調が悪いときの考え事はろくな結論を出さない

 3回めのワクチンを打った翌日、8度近い発熱、上背から腰にかけての筋肉痛、立ち上がったときの斜め後ろにチューインガムで引っ張り込まれるような頭痛。起きているのもつらいというほどではなく、夜しっかり寝るためには日中はある程度起きておくのが良いのだろう。そうはいっても、難しいことをする気にはとてもならない。3週間後に控えたライブに備えて、スパスタのアニメの再視聴でもしようか。しかし、一番楽しみなコンテンツを体調不良時に安易に見るのは罰当たりかもしれない。結局、途中まで読んでいた小説を、ベッドの上で一節読んでは半時間浅く眠るような、長くて退屈な1日だった。それでも、正気でいられたのは、この苦しみが副反応による一時的なもので、やがて終わることを知っていたからだと、思う。

 四苦八苦の四苦は、仏教で生・老・病・死のことを指しているらしい。2000年以上前の時代に生まれたものとはいえ、苦しみの代表選手4名の選考に生が入っているのは後ろ向きすぎやしないか。少なくとも並び立つ3名の顔ぶれをみると、場違いもはなはだしく思える。

 ただしその感覚は、これまでの自身の生に基づいている。五体満足で生まれ、大病もなく、養育と教育を受け、借金もない。時間を取れば小さな不満はいくらでも思いつけるかもしれないが、この生そのものを苦と断じるにはイージーすぎる。

 なんとなくわたしは、この自身の生の安息が死ぬまで続くと思っていた。2000年前からは考えられないほど文明の発達した世界で、高望みせず、暴食を控え、よく寝て、ほどほどに体と頭を動かす。死のそのときまで健康で、自ら墓穴を掘り、自らそこに永眠するような生。健全な精神は健全な肉体に宿ると言うが、こうしたお気楽な将来展望は、何一つ不調のない25歳の男の体から産生される。

 それから25歳健康男は、ワクチンの副反応という強制不調イベントによって、不健全な肉体をもって、不健全な精神を宿すことになった。こと身体的不調というのは、他人から聞くのと身をもって体験するのとでは天と地ほどに違う。熱い、痛い、怠い。今回こそ副反応という終わりのある偽りの苦痛であるが、加齢し、健康第一の生活でも病むことが増えてゆくだろう。そもそも、健康と不健康とに、はっきりと線引きすることはできないのかもしれない。生と死とでも同じことが言える。どこかしらおかしさを抱えながら、ごまかしながら、生は続いてゆく。死の三徴候⸻心拍停止、呼吸停止、瞳孔散大⸻は法医学による人工的な生死の境界であって、器官の一部の機能的な死は以前にいくらでも起こりうるし(たとえばわたしはすでに17000ヘルツ以上の音が聞こえない)、一方ですべての細胞死までにはずっと時間を要する。

 ここまで書いてきて、人生も文章もどうやって締めるかわからなくなってきた。療養中に考え事は良くない。ポジティブな結論が出せないということは、やっぱり生を苦とした仏教万歳、釈迦天才ってことでよいですか。

休日、休み、休むとは

 介護施設での週3労働を開始して1ヶ月半、この労働が楽しいと思えているのはうれしい誤算である。一方で、これまで人間の本来的な価値が宿ると信じていた休日、休み、休むとは何なのだろうかという疑問がわいてきた。

 大学・大学院生時代の6年間は、カレンダーどおりに進む授業こそあった。しかし、部活、バイト、研究、アニメ、ゲーム、プロ野球と活動は多岐にわたり、決して勤勉ではなかった学問に関してもなんだかんだ授業外の学習の比重が大きく、休日を意識する感覚はほとんどなかったように思う。何が本分とも言いがたい、ある種毎日が平日であり休日である、学生とはそうした身分ではなかろうか。なお、遊び友達や恋人といった存在は皆無であったため、彼ら彼女らと交際する日が休日という定義も持てなかった。

 院を出て無職として過ごした1年間は、それこそ平日がなかった。カレンダーどおりなのはテレビアニメとスマホゲームくらいである。好きな時間に好きなことをする毎日に、休日という概念は似つかわしくない。

 それからの現在である。カレンダーどおりでもフルタイムでもないものの、シフトが組まれ、勤務日と同時に人生で初めて休日が与えられることになり、これをどう過ごしたものかわからない。

週休4日の基底

 1ヶ月半前、労働を始めるにしても週休4日ペースを目標とした理由に立ち返ってみる。勤労は国民の義務だといった優等生的回答は脇に置き、わたしにとって労働するのっぴきならない事情が生活費の捻出であった。快適なニート生活が持続可能でないことから目をそらしながらも付けた家計簿により、昨年度(2021.4-2022.3)の支出は151万円余りだとわかった。

21年度の支出

 ここでは支出の内訳については本題ではないので深入りしない(というより別の機会に詳しく書きたいしフォロワーの生活費内訳も知りたい)が、こと消費に対して寡欲だと自覚しているわたしにとっても、ここから10万といったスケールで削るのは難しいという感覚があることだけ書いておく。

 したがって、労働とは150万円/年を得る行為であるという方程式が完成し、今の職場の時給1180円であれば8時間労働を週3でこなすことで148万円/年となり、およそこれを満足する。

 このように、週休4日としたのはあくまで収支ベースであり、休日をいかにして過ごすかを考えて決めたわけではない。いきなり正規雇用で働ける自信も気概も志もつゆいささかもなかったし、目いっぱい働かない上限である無職に対し、その下限を決めたのがお金だったにすぎない。

休むとは

 休日がわからないとぬかしていても休日はやってくるし、現に過ごしている。わからないという言葉からもっと踏み込むなら、休日は平日や労働の補完にしかなっていないという今の実感が受け入れられないとでも言おうか。

 今休みの日に費やしていることの大半は、より良い労働の準備とハウスキーピングに集約される。前者としては予習復習が最たるもので、前回何をやったか、次回何を任されそうか、自宅でも考える時間を設けないと正直自身の能力ではやっていけない。パートタイムといっても労働は労働であるし、30人以上の利用者それぞれのケアに完璧は求められずとも、結局無能のまま居直っているのが一番つらいのだとわかった。以前には考えられないことだが、労働時間外も労働者であることを、だれより自身が欲している。

 後者は、食事の作り置きや掃除洗濯といった語義そのままの家事だけを指しているのではない。毎日録り溜まるアニメ、積み上がる新聞、更新されるソシャゲ、流れるタイムライン、こうした本来は趣味や余暇と分類したくなる定期便のうち、平日に消化できなかった分は休日にまとめてこなすことになる。別に義務といったネガティブな意味ではなく、あくまでこれらも生活の一部として維持されるものであって趣味というには違和感があるというか、情報過多な無料・サブスク時代の実情を俯瞰しての認識である。他方で、これらは労働およびそのパフォーマンス低下を防ぐ睡眠、食事、予習復習などより優先されないという点で、現在の生活の基盤が労働にあることも示唆していて、やはり休日が平日の補完という感覚は否めない。

 もっと休みらしく休みたい。そう思ってブログを書いてもネタは労働だし、今日の朝刊一面の大見出し『大企業 選べる「週休3日」』が目に飛び込んで、増えた休みで大企業の社員は何をするのだろうと思って読んでみても、挙げられているのは副業とボランティアという始末。結局働いとるやろがい。

 ここまで書いてきて、わたしはつまらない大人の典型だと思っていた仕事人間なのかもしれないと思えてきた。週3しか働いていない非正規労働者が、仕事人間を自称するのは滑稽だろうか。しかし、没頭するほどの趣味のない人間が収支をもとに生活を営むと、賃金が発生する数少ない手段である労働が中心になるのは必然なようでもある。

 冒頭にも書いたように、労働は思いのほか楽しい。単に一人暮らしをしている自律があるだけだったこれまでから、今の一応の自立も加わった生活に不満はない。でもこれが満足かと自問すると、そうなのかなあ。

一筋道の先

 生温い雨の降る日曜の16時、日比は柳瀬雪枝にエプロンを着けていた。しかしここはキッチンではない。短期入所型の高齢者介護施設のリビングの片隅である。日比がパートとして働き始めたこの施設では、しばしば日常の語義からずれた言葉が飛び交う。『エプロン』もその一つで、実態は首から膝までの前面を覆うよだれかけである。食事中、食べ物を手元や口元からこぼしてしまう入所者が、当人の服を汚さないために着用する。職員がこうした隠語を使うのは、他の施設利用者も同居する中、着用者の羞恥心を多少なりとも軽くするためなのだろう。

 日比は車椅子に目をつむったまま力なく座っている柳瀬の隣に腰を下ろし、肩を軽くたたきながら食事の声掛けをした。反応はない。柳瀬の夕食、そして日比の退勤までの1時間の開始である。

 ゼリー状の栄養補助食品を茶さじで崩しながらすくい、柳瀬の口元に運ぶ。空いている方の手で再び肩をたたきながら名前を呼ぶと、ようやく半目を開けて顔を上げた。
「お口開けましょう、あー・・
今度の呼掛けには応えることなくそっぽを向いた。スプーンを改めて顔の前に持っていき、ここで口を開けた。すかさずスプーンを挿し込む。今世界で最も重苦しい5グラムのように思われた。

 だれしもが柳瀬のようにマンツーマンの食事介助(食介)を必要とするわけではない。同じフロアには30人余りの利用者がいるが、そのうちの8割は提供された食事を自分で口に運ぶことができる。残りの1割は介助付きで食事ができ、もう1割は胃ろうで栄養剤を送られる。8割が独力で食事ができるといっても程度はさまざまで、麻痺のない半身で器用に皿を真っ白にする人もいれば、声掛けをしないとろくに食べようとしない人もいる。

 日比は介護業務の中でも食介は嫌いではなかった。誤嚥という危険と隣り合わせの活動ではあるものの、ひと月の新人がやれることは知れていて、基本的には利用者の脳と手の一部となって、スプーンとコップを口元に繰り返し運ぶだけだ。日比がいなければ利用者はときに食べ物を認識することもできないが、口を開け、咀嚼し、飲み込んで、消化するのは利用者しかできない。ふたりで一人前になる空間が、半人前の身には居心地が良かった。

**

 新卒採用の選考エントリーをすべて辞退した、一昨年の修士1年の冬を思い出す。大学院で研究している理由。入社を志望する理由。他人から問われるたびに、そんなものは何処にもないと、むしろ視界が広がっていく思いだった。

 修士課程を修了し、晴れて無職となった1年間。減るばかりの預金残高を見て、生きるためにお金が必要であることを理解した。同時に、お金を得る手段として労働を始める理由が発生した。このとき、生きる理由をだれも問うてこなかったことは幸いだったのかもしれない。

**

 柳瀬の食介に入って30分が経過していた。今日は一段と食いつきが悪い。元々食事を嫌がる柳瀬は、他の利用者に提供される主食、主菜、副菜といういわゆる普通の食事は摂らない。他の利用者に先んじて夕食が始まるのも、時間がかかる都合によるところが大きい。飲料タイプとゼリータイプの2つの栄養補助食品計250グラムが、今回も例外なく課された食事であったが、まだ3分の1も進んでいなかった。

 ゼリーをすくい、口に持っていく。日比は柳瀬の声を聞いたことがなかった。ベッドから身体をうまく起こせなかった時も、義歯を上下間違えて差し出した時も、うなり一つ上げたことがない。喋れないのか喋らないのか、認知症の症例として説明はできても、日比には、そしておそらく柳瀬自身にもわからない。できないなりに振られる仕事の量が増えてきた8時間労働の終了間近、力ない声掛けが反響することなく彼方へ消えてゆく。うつむく口に幾度となくスプーンを圧し当てるが、目も口も喉も固く閉じたままである。エプロンには圧し当てたスプーンからこぼれ落ちたゼリーと飲料が、百舌の糞のように跡をなしていた。

 かくして、半人前のままその日の勤務最後の1時間が終了した。この1時間、日比の懐に入ることになる1180円と、柳瀬の胃袋に入った食事100グラムとが等価であったのかという疑問は拭えない。しかし、日比は自身の生死とお金と労働とが順につながった一筋道の先に、また他者の生死が直結している構造を好奇に思いながら、傘を差して家路を歩くのだった。