虚用叢

見渡すかぎりうつろなくさむら

カレーとルート

 カレーとルートは似ている。ここでいうカレーとは、多種のスパイスを織り交ぜたインド料理のことだ。そしてルートとは、平方根√のことだ。どちらもその寛大さによって、あらゆる他者を内に受け容れる存在である。カレーは食材を、ルートは数字を。

「君はルートだよ。どんな数字でも嫌がらずに自分の中にかくまってやる、実に寛大な記号、ルートだ」

小川洋子博士の愛した数式』p. 45

 ルートの話は博士に任せるとして、ここではそんな器のでかい料理であるカレーについて話をしたい。

食材と非食材の境界

 カレーはあらゆる食材を受け容れると書いた。あなたならどんな食材を思い浮かべるだろうか。玉ねぎ、人参、じゃがいも、豚肉、牛肉、……、ルーの外箱の裏に書いてあるようなありふれたレシピでもよいし、茄子、ピーマン、トマト、かぼちゃ、……、季節の野菜を使おうか。しめじ、納豆、メンマ、あさり、……、いやいやもっととっておきがあると、身を乗り出して語り始めてくれるかもしれない。

 他方で、わたしは次元を1つ上げる。カレーの器量はそんなものではない。どんな食材がカレーに合うかではなく、カレーはどこまでを食材と見なせるのか。求めるのは限りなくおいしいカレーではなく、限りなく食べられなそうな有機物を内包しながらも食べられるカレーだ。

 ところで、赤貧の一人暮らしを続けていると、ごみ出しの頻度がどんどん減っていっていることに気付いた。お金はなく、時間はある。この条件が自然と自身の生活を身の丈に合ったものに変化させてゆく。余計なものを買わないというより、人並みに物が買えない。我慢するだの節制するだの、自分の意志でやっているうちは程度が知れている。必要に迫られてそれに順応するという過程では、便利さだとか清潔さだとか好奇さだとかあらゆる欲だとかの閾値が、外部から指数関数的に下げ続けられることになる。

 そうしてごみ出しの頻度が減ってゆくと、困るのが生ごみである。食事に関しては、出費を減らしてゆくといずれ自身の栄養という下限にぶち当たる。生ごみに関してもこの下限食事量に付随して排出され続けるため、その他のごみから相対的に量を増やすことになる。加えて厄介なことに、この生ごみは衛生上長期間溜めることが難しい。都市に住んでいると、畑にまくこともできない。したがって、ごみ出しの頻度の下限もまた、食事による制約を受けるのだ。

 由々しき事態だ。わずかな部屋のごみと生ごみを入れた無駄に大きい自治体指定ごみ袋は、代わりに空いたスペースにわたしの6年間の独り生活の矜持をつめて焼却場に持ち去ってしまう。

 こうして窮したわたしに通じた策。それが『生ごみを出さない、全部食べる』であった。

 そもそも、食材と生ごみとの違いは何だろうか。教科書的に言うなら、可食部の定義とは何だろうか。文部科学省が改訂・公表している日本食品標準成分表から日本食品標準成分表2020年版(八訂)分析マニュアル(令和4年2月)を参照してみる。

 付録2の食品群別の試料前処理法(pp. 247-254)に詳しい、が十分ではない。たとえば魚類に関しては”可食部(三枚おろし)”の記述があり、それ以外の切り離された頭や中骨、ひれ、えら、内臓等は廃棄部とすると読み取れる。他にも全卵生の項目を読むと、可食部が何であるかの直接の言及はないが、測定作業の記述より殻に付着する卵白までがそれであることがわかる。一方で、野菜類、果実類、きのこ類等では、作業工程に”廃棄部位を除去”するとしか書いておらず、その廃棄部位が何であるかの説明を欠いている。

 結局のところ、成分表というのはそれを利用する国民にとって有益な情報でなくてはならず、可食部は何かを議論する場ではないのだろう。可食部は人々に曖昧な慣習、常識として共有され、文部科学省もまたそれに倣っている。

 そしてこれこそが重要な示唆だ。すなわち可食部とは慣習や常識に過ぎず、一定時間内に一定質量以上摂取すると致死率が一定値を超えるといった毒性による定義や、咀嚼不能とみなす硬度による明快な定義が存在するわけではない。三角コーナーから慣習をつまみ出し、気の迷いによって口に放ってみる。喉を通った瞬間から、世界は変わる。

カレーライスに希望つめて

 食えないと思っていたものを食ってみるとき、カレーは心強い味方だ。一般に、廃棄部とされるものは、不味い。遠回りしたが、可食部すなわち美味いところ、廃棄部すなわち不味いところという定義が簡潔で的を射ている。この不味いところが不味いゆえんは、大雑把に食感、食味、臭いの3要素に分解することができる。そしてこのいずれについてもカレーは融和的だ。細かく刻んで煮込んでしまえば食感はましになるし、味と臭いはより強いカレーのそれにごまかされる。食えなそうな有機物を何とか食えるようにする料理として、これほどの適任はいない。

 以下では、一般に食えないとされるもので、わたしが食っているものの一例をその食い方別にランク付けして並べていく。4.カレーでしか食えないはいわば食いにくさ最高ランク、廃棄部との境界だと思ってもらえればよい。

1.生で食える

  • りんごの皮、芯、種、へた
  • トマトのへた
  • いちごのへた
  • ぶどうの皮、種

 ここには可食部を多く生で食う食材で、廃棄部もそのままいくものが該当する。硬さや繊維っぽさ、渋味や青臭さといった、いわば草木感が可食の壁となる。わたしのように小松菜やパセリを生でパクパク食べられる人は、特にこれといった処理なしで食うことができるだろう。むしろ下手に温めたりする方が、青臭さが増してかえって食べにくいかもしれない。

2.レンチンで食える

  • 卵の殻

 卵の殻はほぼ炭酸カルシウムであるから、最もコストパフォーマンスの高いカルシウム食材の一つである。栄養価でいえば、廃棄される部位の多くは植物系の食物繊維・ビタミンあるいは動物の骨格系のカルシウムそのものに二分され、可食部からの摂取量をその分浮かすことができる。鶏卵の殻は薄く、硬さだけならそのままでも噛み砕けるが、気持ち程度雑菌を殺すためにレンチンをしている。同時にまとわりついた卵白も固まって少し食べやすい。卵白の膜が弾け飛ぶので、軽くラップをしておくとよい。

 味はなく、臭いもほぼしないが、咀嚼にはコツがいる。ヒトは咀嚼を繰り返す中で食塊という団子を口内で作って飲み込むのだが、殻は唾液(水分)を吸うこともなければ溶けもしないので、この食塊ができにくい。歯茎を切らないように舌や喉頭蓋も使って割るようにしてざっくり破片にした後は、砂状になるまで根気強く奥歯ですりつぶすこと。焦って水で流し込んだりせず、あくまで唾液で少しずつ飲み込むのが良い。卵の殻に限らず、食材の定義を拡張する際は、少量ずつ、よく噛んでから飲み込む。吟味とは、こうした営みのことを指すのだと思う。

3.焼けば食える

  • 人参の皮、へた、根
  • キャベツの外葉、芯
  • 白菜の芯
  • 玉ねぎの皮、茎、根、頭部
  • ピーマンのへた、芯、種
  • きのこ類の石突、原木
  • 魚類の骨(大型魚類除く)、頭、ひれ、鱗

 ここにはランク1と違って加熱して食べることが多い食材が並ぶ。人参を例に取れば、たぶん皮もへたも生で食おうと思えば食えるのだが、基本的に可食部分は加熱調理して料理に使うため、廃棄部とされる部分も一緒に調理しているというだけである。そのため、食べにくさというランクの基準とは一部齟齬がある。

 人参でも大根でもじゃがいもでも茄子でもよいのだが、これらの薄くて食感も味も存在感のない皮をわざわざ手間暇掛けてむく意味とはいったい何なのだろう。どうぞそのまま食え。火が通りにくいなら隠し包丁だけ入れろ。

 キャベツと白菜の芯は、硬いので刻んだり薄切りにしたりして食感を他となじませる。貧乏舌のわたしに言わせれば、味は葉の部分と大差なく、炒めるにしても煮込むにしても料理を邪魔しない。

 玉ねぎの諸々は曲者だ。十分に加熱しないと翌日に肛門が火を噴くことになる。一方で風味は非常に豊かで、廃棄部すなわち不味いところの定義から外れる逸材でもある。野菜炒めやカレーにおすすめ。

 山の人間で海産に疎く、加えて魚は高級品なのであまり食べないのだが、たまにセール品を買って食べると、特に青魚には栄養素の塊を彷彿する滋味に圧倒されて驚く。よく焼いてよく噛めば、やはりこれもほとんど食える。大きめの魚の中骨を一個いっこ外すと、そこにプルプルとした椎間板を容易に見ることができる。ヒトの脊椎も同じ。

4.カレーでしか食えない

  • 茶殻
  • コーヒー豆
  • 柑橘の皮、へた
  • バナナの皮、へた

 茶殻に関しては、麦茶、さんぴん茶と、中国人留学生からもらった謎のお茶の経験がある。もちろん、普通に淹れて飲んだ後に残った、ティーバッグの中身のことを言っている。国内でも(緑茶の)茶殻を食べる文化はあるようだが、わたしの場合は食べられるのかという疑問が自分事として浮かんできて調べることで初めてそのことを知った。

 出涸らしであるはずなのに残存する風味は強烈で、カレーに投入するにしても分量を誤ると異様な存在感を示す。ものによるだろうが、パサパサ、ザラザラ、ゴリゴリとした豊かな口当たりについても、やはり許容量を見極めねばならない。むしろカレーの他に、お茶を活かす方向で調理を探求するのが吉かもしれない。

 コーヒーはもともとインスタントを溶かしてレンチンするという考え得る限りのずぼらな飲み方をしていたのだが、ある日誤って抽出用の粉を買ってしまった。当然ドリップの環境はなく、これについては茶殻を取り出したティーバッグに粉をつめてクリップで封をし、やかんに突っ込む茶沸かしスタイルで事なきを得た(追加費用ゼロ)。だが、ここでもまた出涸らしが残る。

 あくまでカレーに入れた場合での比較だが、コーヒーの方がお茶よりはずっと食べやすい。煎り大豆を粉砕して食べるとこんな無味乾燥な感じなのだろうか。カフェインは抽出時に大半がコーヒー(水)に溶けているだろうし、栄養価でいえば三大栄養素と食物繊維が豊富な健康食材なのかもしれない。

 1.で生で食う果物とその皮を挙げたが、そうもいかないものはカレーに何とかしてもらう。わたしの食卓でいえばそれが柑橘とバナナだ。温州みかんタンゴール、文旦等々、柑橘は好んで食べるのだが、どれもその外皮は厚くて強烈に渋く、とても生で食べられたものではない。バナナの皮はそれと比べれば味はましだが、ぬめりと繊維のコンビネーションで、果実を忘れてしまうほど気合を入れて飲み込む必要がある。

 カレーの真価はここで存分に発揮される。いずれの皮も小さく刻み、バナナのへたはかなり硬い(ほぼ木)ので細かく筋を割いて、根菜類よりも早い段階で煮る。水をほとんど入れずに焼くような形でもよい。とにかく火をよく通しておく。あとは普通に作れば、みかんの渋味もバナナの食感も気にならないカレーができあがる。とはいえ決して美味いところではないから、あくまで分量は慎重に。一度ジューサーでペースト状にして混ぜたことがあったが、そのときはソース全体がザラザラした線維感に押し負けて不味かった。あくまで無毒化した具材として席を用意するのが無難だと思う。

5.食わずに捨てる

  • 大型魚類の骨
  • 魚類の内臓
  • 貝類の殻

 口惜しいことに、今のところ食えない、食い方がわからないものもある。たとえば小さくない鯛の頭骨は、煮たり焼いたり揚げたりしてもわたしの歯で噛み砕くことは不可能であった。貝類は高いし好きでもないしで買わないのだが、もし手に入れば同様の理由で殻は食べられないだろう。咀嚼可能かどうかの一点が卵殻との違いである。

 それらと比べれば、内臓はまだ可能性がありそうである。足りないのは距離の近さだ。豊漁なり養殖なりで価格破壊でも起こって、毎日内臓を抱えた魚と対峙することになれば、いずれどうにかして食ってみるかという気が起こるかもしれない。これは魚に限ったことではなく、あらゆる動物についても、より生きたそのままの形で冷蔵庫に突っ込まれることになれば、新しい適応をしていくことになるだろう。

おわりに

 こうしてわたしは生ごみに制約される暮らしが我慢ならなくなり、偉大なるカレーの力も借りて可食部の範囲を拡大してきた。思えば同じ排出物にしても、すべてが一度自分の消化管を通ってトイレに流されていくという構造はなかなか痛快ではないか。

 人間ほど活動範囲を拡げ、何が食べられて、何が食べられないかを模索してきた存在もないだろう。その更新はこれからも続いていく。もしわたしが早死にしたら、このブログを思い出して、きっとバナナの皮を食っていたからだ、あるいはカレーを食い過ぎていたからだと笑ってくれるとうれしい。