虚用叢

見渡すかぎりうつろなくさむら

欲求と要求

 先月の頭、今年4回目の夢精をした。いや、先々月の末だったかもしれないが、4回目というのは確かだ。1月に2回、3月に1回、それから3ヶ月以上空いての4回目だった。たぶん、成人男性はふつう今年の夢精回数を数えたりしない、というより夢精をしない。ではなぜ成人男性であるわたしが夢精をしているかというと、自慰の頻度の減少が関係していると思っている。

 今年の自慰回数はというと、3回である。自慰の回数を覚えている成人男性はそれこそまれであろう。ただ、流行病の予防接種回数を意識せずとも忘れないように、いまのわたしにとって自慰は、それと同じくらい日常から離れた低頻度のイベントなのだといえる。

 とはいえ、昔からこうだったわけではない。いまでこそ不意に夢精を起こす自身にも慣れてきたが、かつてはひとなみに若い女やそれを連想させるものに欲情し、ときに衝動的に、ときになんとなく、ときに眠れぬ夜に、自慰に励んだものだった。それがどうしてこうなったかというと、べつに高尚な理由も思想もない、なんとなくこうなってしまった。しいてあげるなら、必要性を感じなくなったからであろうか。

 昨年の秋口から自慰頻度は急減し、その年最後の自慰が9月か10月だったと思う。今年に入ってからの自慰というのも、突然の夢精を受けての実行だった。寝具に精液をまき散らす夢精は始末が悪い。コントロールできない就寝中に出る分を、自慰によって意識下に置けないか。少なくとも前回の射精から期間が空いたこととの因果はあるだろう。ただし、効果のほどはわかっていない。結果として、秋の自慰から、1月の夢精、自慰、自慰、夢精、自慰、3月の夢精、7月の夢精を経て現在に至る。

 冒頭から下の話を続けたところで、話題を広げてみる。性欲が食欲、睡眠欲と並んで三大欲求面しているのは昔から納得がいかなかった。しかし、食や睡眠について欲求にしたがって貪っているかとあらためて問われると、素直には首を縦に振れない。食べたいから食べる、眠たいから眠る。わたしは本当にこのように生きているだろうか。それよりむしろ、食べるべきだから、睡眠が体に良いから、そうする必要があるから、理性的に食べて眠っているのだと描像する方が、実態に近く思われてならない。いうなれば、欲というより要に求めて生きている。

 これは先の、自慰をしなくなったのは必要性を感じなくなったからだという論につながる。なんだかんだでわたしもいつかだれかと愛し愛されてまぐわう日が訪れるだろうという思念は、歳を重ね、将来像の具体化と一人暮らしの最適化の進行とともに急速に薄まってきた。はたして性愛は不要として求められなくなった。一方で続いているようにみえる夢精は、射精能力の維持という心身の妥協点の発露なのだろうか。

 欲求と要求の区別は、単なることば遊びにすぎないかもしれない。それでも、知性と理性を獲得した以上は、低次の欲求でさえ打算と切り離すことができない。この認識が、他人と会話するときも、好きなアニメの商品を買うときも、なんなら好意を抱くときも、衝動的になれない自身を肯定する材料となるような気がする。